
〔表紙解説〕
昔の大阪(承徳二年の古図による)
昔の大阪(承徳二年の古図による)
38.6×26cm、阪神電氣鐵道株式會社発行、昭和14年3月 地図情報センター蔵
本図は承徳2(1098)年の「難波津図(浪速古図)」の模写を複製印刷したものである。元図は、多数存在する(後述)難波津図のうち、大阪天満宮が明治41年に複写した「浪華古図」であると考えられる。
まだ大阪の大部分は海で、淀川や大和川からの土砂による砂洲が点在している。本図は近世(江戸期)に古代浪花の神社や遺構の(推定)場所が描かれた古地図として複写(模写)された。
京都府立大学文学部上杉和央「近世における浪速古図の作製と受容」(史林 85 (2), 157-197, 2002-03-01史学研究会)によると、浪速(浪華)古図は地図としては「近代以降、歴史学者および地理学者はこの齟齬(地形や地名の不一致など)に注目し、「古図」が実態を示した正確な図ではなく、史資料として不適当であると位置づけた。」のである。「しかし、八十年代末になり、服部昌之が新たな方向性を提示した。服部は、浪速古図を「過去の場所」の実態を示す図と見れば確かに誤りが存在することを指摘した上で、『しかしこれらの浪速古図も、江戸時代における大坂の知識人が考証した古代難波とその周辺についての歴史地理図として見直すことができると思われる』とした」と述べている。
難波古図は100枚以上現存し、それらは数種の陸地パターンに分類される。本図はそのうち、「新羅洲および百済洲が西の海に大きく描かれ、河口付近に多くの中洲が存在すること、熊野一ノ王子、二ノ王子が記載されること、などが挙げられる」パターンのものである。
また、国立国会図書館所蔵「応永二年及承徳二年難波津図」(宝暦5(1755)写)も類似パターンで、他の図にはない「七不思議ノ栴檀」が強調して描かれている。
地図としては不正確でも、江戸時代に平安時代後期の浪速の姿を描いた知識人や画工たちの想いが伝わってくる。(編集部)
本図は承徳2(1098)年の「難波津図(浪速古図)」の模写を複製印刷したものである。元図は、多数存在する(後述)難波津図のうち、大阪天満宮が明治41年に複写した「浪華古図」であると考えられる。
まだ大阪の大部分は海で、淀川や大和川からの土砂による砂洲が点在している。本図は近世(江戸期)に古代浪花の神社や遺構の(推定)場所が描かれた古地図として複写(模写)された。
京都府立大学文学部上杉和央「近世における浪速古図の作製と受容」(史林 85 (2), 157-197, 2002-03-01史学研究会)によると、浪速(浪華)古図は地図としては「近代以降、歴史学者および地理学者はこの齟齬(地形や地名の不一致など)に注目し、「古図」が実態を示した正確な図ではなく、史資料として不適当であると位置づけた。」のである。「しかし、八十年代末になり、服部昌之が新たな方向性を提示した。服部は、浪速古図を「過去の場所」の実態を示す図と見れば確かに誤りが存在することを指摘した上で、『しかしこれらの浪速古図も、江戸時代における大坂の知識人が考証した古代難波とその周辺についての歴史地理図として見直すことができると思われる』とした」と述べている。
難波古図は100枚以上現存し、それらは数種の陸地パターンに分類される。本図はそのうち、「新羅洲および百済洲が西の海に大きく描かれ、河口付近に多くの中洲が存在すること、熊野一ノ王子、二ノ王子が記載されること、などが挙げられる」パターンのものである。
また、国立国会図書館所蔵「応永二年及承徳二年難波津図」(宝暦5(1755)写)も類似パターンで、他の図にはない「七不思議ノ栴檀」が強調して描かれている。
地図としては不正確でも、江戸時代に平安時代後期の浪速の姿を描いた知識人や画工たちの想いが伝わってくる。(編集部)

